「墓碑銘」
後藤哲也くんの記憶
「今朝、後藤が死にました」
たんたんとした口調、思わず耳を疑う。1か月前ゴルフ場で一緒だった。しくじれば口惜しがり、うまくいけば得意顔。いつものように100切りと格闘していたっけ…
聞けば、栄光学園時代の仲間たちと御殿場でゴルフ。サッカーの合宿地として有名な「時の栖」で打ち上げ、一泊後自由解散というスケジュールだったらしい。ベッドメークに入ったホテル側スタッフが鍵を開けたときは、すでに死後硬直が始まっていたという。心臓?だろうね。煙草もやらないし、持病も聞いたことがない。
1974年夏 半世紀前の記憶、サッカー愛好会4年ともなると、合宿をのぞきに行くのも物見遊山。ただ前年、自分たちの代で一部昇格していたので、どんなチームなるのか? 一部の名門チームと戦ってどうなるのか? 興味深く、秦野の合宿所に行ったのはゲーム練習中心の後半2日くらいだったはず。新キャプテンの澤村彰一くんは真摯に練習と取り組む人物だったので、持ち込んだウイスキーは、夜こっそりロッカールームで飲んだ記憶あり。
自主練のへデイングで目を引く一年生がいた。後藤哲也くんである。黄色のタイヤ柄のTシャツ、体幹のバネを利かせた高い打点。「あ、きみイーグルを背負って頑張ってね」思わず声をかけていた。その代は人数も多く、春シーズン早々にレギュラーとなった松野尾文明くん、大柄なサイドバックを手玉に取る名手、高橋和男くんなど、サークルレベルとしてはレベルが違っていた。イーグルの歴史で初の一部リーグ、一年生アタッカーの使われ方は後半残り10分、澤村キャプテンと交代で、ある時は逆転に、ある時は逃げ切りを期待されるピッチの最前線にあった。そのシーズン一部4位、県代表など一人もいないチームにしては上々の成績だった。
憶えている光景がある。シーズン真っ盛りの11月、ソフィア祭の提灯行列。前方に見慣れた顔を発見。1年生の後藤くんだ。清水谷公園の下り坂、酒気帯びで女子大生の提灯にイタズラしている。当然イヤな顔されて周囲は盛り下がっていた。男子校出身者はこれだからなあ、もうちょっとうまくやろうよ。見栄えはいいんだから、うまくやれば持ち帰りまであるのになあ(笑)当時は密度こそないが、サラサラした頭髪が頭骸骨を覆っていたわけで…
翌1975年の新関東フットボールリーグ、後藤選手は覚醒した。
日大生産工学3-1/早稲田稲穂3-0/早稲田理工3-0/中央同好会4-1/明治同好会4-1/慶應工学部1-2/立教同好会1-0、6勝1敗で優勝。19得点のうち9点をたたき出したのが彼だった。一部リーグ得点王、このときのキャプテンは横山弘くんで、いや笑っちゃうほどサッカー大好きな人物。70歳を迎える今も腎臓壊して透析中なのに、ボールを蹴っているという。いい加減にしてくれ。
その横山くんは後藤くんいついてこう言う。 「圧倒的な存在感を見せたアタッカー。敵BKを引きずるようなドリブル、両足のシュート、滞空時間の長いヘッドなど群を抜いていました。サイドに走りこんだり、敵にプレスをかけたりすることなどなく、典型的な昔のCFだったなあ」 とにかくボールがあったらゴールを狙う、そんなプレースタイル。ゲルト・ミュラーや中山ゴンとよく似ている。
中学・高校とプレーをともにしたGK廣瀬くんに振り返ってもらった。
「中学のサッカー部で初めて見る後藤はひ弱かった。早生まれのせいもあったか、身長もなく線も細くて、練習で長距離走をすると常に私ともう一人Iと私でビリを争った。後藤は一念発起して高価なブルーワーカーを買った。(ちなみにIは今ではマラソン、トライアスロンの大会に参加している。私以外二人とも努力した)
もっともブルーワーカーの効果がはっきり出たのはすでに高校二年生の終わり、栄光学園でのフォワードレギュラーの座は逸した。その後イーグル・高校OBのクラブチームで不動のエースストライカーの座を維持し続けた。同時に教師にもはむかう喧嘩早かった性格も丸くなった。
OBクラブチームが属するオーバー40のリーグではストッパーをやることが多くなった。ヘデイングの強さが代えがたかったのである。ある重要な試合で後半から後藤を交代させると3期上のチーム代表がハーフタイムで告げた。私は憤然と、勝ちたくないのか替えるなら他の人にしろと抗議したが、ゲームに来た全員を出すのが方針だからと却下された。案の定負けた。
40歳代も半ばになって、後藤はそろそろ引退したいと言った。私は引き止めたかったが、相模川か馬入川の河岸の砂利まじりのグラウンドでスライディングすると、モモの裏が擦り剥け、次の日の背広のズボンにくっつくからと、反論できない理由を言った。
ゴールキーパーの私はボールを持ったら、とにかく最前線の後藤めがけて蹴った。そういうサッカーだった」
筆者の記憶に戻る。彼は卒業後、ソニー入社。USA勤務も長く、OB会でゴルフをともにするようなったのは2000年以降だと思う。あれだけのCF、どのくらい飛ぶのかと思ったが、たいしたことはない。でもゴルフ大好きなのは、よく伝わってきた。たぶんOBゴルフ会皆勤賞は、幹事の大角直也くんと我々二人だけのはずだ。泊りがけOB会、オヤジだけのカラオケで彼が歌うのは常に英語の歌、とりわけビートルズ。それを提灯行列でやっていれば展開はかわっていただろう。フェイクの札で賭けるチンチロリン大会、勝てばご満悦、負ければ仏頂面。とにかくわかりやすい。ちなみに麻雀は顔に出やすい性格もあり、得意は暴牌だったかと…
一つだけ心残り、テニスの勝負付けが済んでいないのだ。ゴルフ同様、理想を目指して突き進んでくる彼を、自分がいなす展開になるのだろうけれど、それは三途の川テニスクラブでの楽しみにとっておこう。
1か月前のイーグル60周年パーテイ。「イーグル史上たった一人の一部得点王」と紹介されてマイクを握った。50年前の試合結果をすらすらとよどみなく語り、自分の点はごっつあんゴールと、周囲を立てていた。陽気で明るく、負けず嫌いなストライカー後藤哲也くん、いい人生だったよね。また会いましょう。
小島宣明