〈記者会見資料〉
K島生誕50周年/50大メモリーズ!

おおざっぱに0〜12歳(小学校卒業)13〜22歳(学生時代)23〜34歳(サッカーからテニスへ)35〜45歳(テニスからゴルフへ)45歳〜(円熟・爛熟・百花繚乱)くらいにわけて書いてみることにしませう。

第1章 (0〜12歳)
53年3月20日生まれ。新宿区柏木(西新宿)で3歳半まで過ごし、練馬区高松へ引っ越しました。寿福寺幼稚園をへて練馬区立練馬小学校卒業。

1:漢字は相撲で憶えたよ
 3歳の時、練馬に引っ越すわけだが「大泉」を「おおいずみ」と読めたという逸話が残っている。『「大晃」の「おお」と「泉洋」の「いずみ」だから』とほざいたという。書き取りは点やハネをいい加減なタイプだからたいしたことなかったが、読みはけっこう(今でも)強いほう… といって漢字検定受ける気力はないけど。

2:しゃべりの稽古は紙芝居
 オトナばかりの家にひょっこり出現したコドモだったので、いろいろ仕込まれた。2,3歳のころ紙芝居を演じてゴキゲンな写真が残っている。得意ネタは「くまのプーさん」たぶん、これっきゃ持ってなかったんだろうね。ウケを取るおもしろさは、こういう“擦り込み”から身に染みこんだんじゃないか。

3:「できたできた」と「みんなで作ろう」
 これはですね、NHK教育テレビの図工の番組なんですね。2年と4年の時レギュラーで子役やってたわけ。劇団の子より自然だからいいだろう、サイズが小さいから2歳くらい下の設定ででられるし… でも早退してNHK通うのがイヤでねえ。「バス通り裏」のオープニングのセットがあったのをよく憶えてる。

4:愛読書は「暮しの手帖」
 全集ブームのなかで「少年少女世界文学全集」なんてのもとっていたんだけど、読みふけったのはもっぱら「暮しの手帖」だった。商品テストや花森エッセイは繰り返してよんでいた。花森安治てえのは取材、撮影、レイアウト、イラスト、描き文字、宣伝物、表紙。何でもこなした達人だな。一緒に仕事したくはないけど。

5:学芸会は○、運動会は×
 テレビ出演経験者ということもあり、声も大きいし、学芸会はいつもキャラクターの立った役をもらっていました。逆に運動会は頭痛のタネ。身長順に組み合わせるので(前の方は)いつも走る相手が同じ。5頭立て3着が最高、6頭立て5着が最低、顔ぶれから6頭立て4着が予定された6年のときは交通事故で不出走。

6:四谷大塚進学教室「国立2組」
 5年の秋頃だったか、模擬テストのただ券が配られたので受けたら受かっちゃった。受験者の大半は受かるのだが「国立2組」は凄いんだ。首都圏中学受験エリートのトップ500くらいが集合。ちなみに現東大教授の酒井信介(高松テニスクラブ)さんで1クラス下の麻布組。まあ函館2歳ステークス出走くらいですか?

7:交通事故!
 6年の5月、運動会の前日。今は高松テニスクラブ3番コート下のT字路で、自転車に乗ってカーブした出会い頭ライトバンと衝突! 左あごを6針縫う裂傷。人生であんなに血まみれになったのは初めてだあ! 脳波を取りに行って頭に針をプスプスやられたり、なかなか大変でしたね。今も左あごの下にキズは残る。

8:「スカートめくり、キス実践研究」
 まあ、こういうことの嫌いなコドモは大成しないあるよ。しかし先日2年の時に同じ組だった田中真弓さん(彼女は松井良兼の担任だったり)に「スカートめくってその中に頭入れたのはキミだけだった」と叱られた。キスは「まあいいじゃん」ってカンジなんだけど、周りが喜ぶのでやってたんだよ、ホントに。

9:東京五輪と豆記者観戦記
 今でもソラで言えますよ、男子陸上トラックの金メダリスト。日本人16種目の金メダルもフルネームで言えます。記憶力の無駄遣いですが… 読売新聞に掲載された「豆記者観戦記」はローカル文集「練馬の子ら」につぐ作文活字化の第2作でしょうか。掲載謝礼はバイメタル温度計だった記憶がある(これも無駄遣い)。

10:ひょうたん島世代
 6年生のときに「ひょっこりひょうたん島」放送開始。大人をちゃかすこと、だじゃれの使い方、キャラクターの作り方、みんなこの番組から憶えた。後年BSで復活したときのPは「みんなで作ろう」のPだった雪正一さん、テーマソング歌ってた前川陽子さんは中学校の先輩。妙に縁のある人形劇だったと思う。

第2章(13〜22歳)
区立練馬中学校―都立石神井高校―上智大学と進学する。浪人はしてないよ、努力する才能はないけど、そこそこ要領はいいんだから。クラスの女のコはほとんど年上だったけど…

11:サッカーしようか/上
 第1次サッカーブームは東京五輪のあとだから中学生。練馬中にはサッカー部がなかったので、放課後校庭占拠してやってた。高校はサッカー名門校で、練習を見ただけで断念。今思えばマネージャーで入るテがあったなあ。とはいえこの年齢で少しでもピッチに立っているのはエライ! 才能ないから衰えもないしなあ。

12:サッカーしようか/下
 なわけで実技のほうは大学の愛好会で実践にいたる。ま、こちらのほうも記録より記憶に残るジョカトーレっつうことで4年間。公式戦の1点はフィードともロングパスとも言いようのないキックが、敵DFの頭に当たって(要するにオウンゴールですな)のもの。スコアラーを説得してあれはシュートだということに…

13:グループノートというコミュニケーション
 当時って班ノートやら仲間ノートやら回しませんでしたか? 中1の時の担任桃井先生にはずいぶん丁寧にレスをされました。高校時代金井クンとは下ネタで覇を競った記憶があります。大学では個人ビラに発展させて、今はホームページ、メール通信。進歩したのか、しないのか微妙なところ。
 
14:深夜放送の星になれ
 中3〜高2の3年間は7円のハガキがお友達。最難関「那智チャコ・パック」採用のTBS金文字入りアルバムももらったよ。今思うと、あの頃のトレーニングがかなり役立ってるように思う。なんでも若いウチに練習するこった。あっちのほうの修業ももう少し早く始めていれば、人生違っていたかもしれない。

15:落語と笑い、談志かぶれは当時の…
 高校時代「帰宅部」はあんまりだというわけで入ったのは「落語研究会」。高座にかけたのは「やかん」「居酒屋」「たがや」「狸賽」「宿屋の富」「芋俵」「疝気の虫」、まあしかし談志師匠の名著「現代落語論」の支配下にあったのは事実だね。いちおう文楽、円生のナマには間に合った。国立の落語研究会にて拝観。

16:初射精と童貞喪失
 これが遅くて申し訳ないんですが(誰に?)、前者は中学3年の修学旅行・京都の夜「いやあ、あせった!」 後者は大学3年も終わりの方でした。想像していた場所よりだいぶ後ろだったのが印象的です。参加するより観察するほうがスキなんだけど。現役生活をいつまで続けられるか?が50代最大のテーマになるでしょう。

17:立て餓えたるものよ〜
 大学に入ったのが71年なので、学園闘争そのものは秋から冬への時代。とはいえ「反対するのが好きだから」の体質は生来のもので、全学バリストにも参加! ガリ切りや立て看はお手の物だけど、ウケを取りにいく性癖と党派の論理はかみ合わず、後半はサポーター。インターもワルシャワ労働歌も歌える。だからなんだ?
  
18:マージャンは何を教えてくれたか?
 中学校のとき手書きで麻雀カードを作りました。教室でやって先生に取りあげられました(卒業時返却)。持ち合わせたソフトの対決だから、長時間やれば必ず強い方が勝つゲーム、つまり「必勝法は自分より弱いヤツとやること」と気づくのは社会人になってからのこと。学生時代はヒマさえ研究にいそしんでいた。

19:卒論「江戸時代庶民教化政策にみる禁書の研究」
 ようするに江戸時代の発禁本を並べてみたわけ。井上ひさし「手鎖心中」まで参考文献だってんだから、お手軽だねどうも。ただ興味本位だから読みようによっては面白かったはず。成績はお情けのBだったように記憶している。Cかもしれない、Aをよこす度量はあの学校の教授にはない。  

20:欧州遠征
 卒業旅行と称して大学4年の2月、初めての海外旅行。羽田ではパスポートを忘れ! アルプスではスキー場で氷壁に激突! パリでは地下鉄から飛び降りて、無傷生還! ローマでは詐欺師に引っかかり大散財! アムスでは飾り窓に沈没! 各地で失敗だらけでしたが武者修行としては、それはそれは有意義なものでした。


第3章(23〜31歳)
50年4月光文社入社、7月より女性自身編集部配属。53年6月結婚、59年7月長女誕生。順番をたどるとこんなところですが…

21:2度にわたるGUAM遠征
 サッカーはプレーヤーとしてはともかく、企画&コーデイネーターとしては優秀でした。「下ネタ竹馬の友」の金井クンの父上がGUAM在住なのをいいことに、23歳と29歳の2度に渡り実施。君が代がなったり、日の丸袖につけたりやりたい放題。ちなみにGUAM選抜チームとの対決は2回とも引き分けでした。
  
22:女性自身編集部
 配属1日目に「トレペ持ってきて!」と言われ持っていったのがトイレットペーパー(正解はトレーシングペーパー)。締め切りの弁当や、飲み会後のラーメンでどんどん太る。「やせる」記事を作るたびに太る。週刊誌づくりが今よりおおらかだった時代。実用から芸能までぐるりんとやったけれど皇室だけはまわってこなかった。
 
23:家を出て…はみたけれど
 学生時代、なにより羨ましかったのが一人暮らし。仕事だ、麻雀だで帰宅が遅く出勤もいい加減… 親も不思議がるので1年で自立? ところが考えてみたら掃除、洗濯はけして得意じゃない。なわけで結婚も早まるわけですが、一人暮らし時代は風呂の空だきとか、思い出したくないチョンボも数知れず。

24:カギを閉めたら外だった事件
 江古田に住んでいた頃、酔っぱらってシャツ1枚下半身ハダカで寝ちまった。深夜に目が覚めてドアをあけたらそこは外だった。ボーッとしていて外と通じるドアを開けてしまったらしい。おまけに自動ロックで家に戻れない。困った。逃亡先をさがしたが見つからず、結局交番に出頭した。ありゃあ情けなかったなあ。

25:25歳にして結婚!
 そのころ大学の友人とかけっこうバタバタと結婚してました。今と違って早かったかもしれない。53年6月30日上智大学クルトルハイムは梅雨の終わりの大雨。披露宴は「六本木・テニスクラブ」って店の名前だよ、これ。二次会が麻雀大会で新婚旅行は西海岸(伊豆じゃないってば)。今思うと???の企画だけど。

26:「コジマツアー」発足 ハワイを攻める
 結婚翌年くらいから夏休み&新年は「大人数で南の島へ」が定番となる。ハワイはその目的地としてプロトタイプな場所。1回目はポリネシア文化センターもシーライフパークも感動が新鮮だから… やがてゴルフが主要なテーマとなり、ハワイもお隣島がメーンのターゲットになっていく。

27:テニスという名の快楽
 テニスとの出会いは23歳、おりしもポパイとかがテニスを取り上げ始めたころ! やってみるとこれがそこそこ巧くいく。今まで実技ではそれほどいい思いしていなかったので気合いも入った。実家の前がテニスクラブ、ここで憶えた小技を会社のテニス部に持ち込み覇権を奪い私物化、今日にいたる。

28:オトリ捜査で憶えた草の味
 ハワイでは妙なオジサンとも知り合った。彼は麻薬取り締まりのアンダーカバーをしていた?のだが、K島はオトリとなってマリファナを買い付けに来た雑誌記者の役。売人のアンちゃんに依頼しホテルで味見をした。かなり良質の草ですっかり酩酊。でも酒よりカラダ壊さないし、老人には許されると確信している。

29:年間成績
 20代後半からテニスとゴルフに関しては年間成績つけてます。02年終了時点でテニスは5038勝3501敗。記念すべき5000勝の相手は井山・●●でした。ゴルフは1104ラウンド。年間アベレージ100を切るまでに8年かかり、80台到達には20年かかった。翌年は90台に逆戻り、ヘボだねえ、どうも。

30:長女毬奈誕生!
 59年7月5日ですか。いちおう国際的に通じる音(おん)にしようと名付けたつもり。お祝い返しにLAのハーバー、マリナ・デル・レイにひっかけた「マリナ・デル・トレイ」なる皿を作って配布しました。我が家ではまだ使ってます。ろくでもないDNAですが、一人くらい残しても罪にはならんでしょう。  


第4章(32〜44歳)
34歳で女性自身からJJへ、4年後GAINERへ。ファッション誌に10年いてファッション記事入稿はほぼゼロ。されど傍流は楽し。

31:運転免許取得
 取材でインドに行きました。インド人でも運転できるということに感銘を覚え、帰国後運転免許取得にチャレンジ! けっこう金と時間くいましたけど取れました。クルマにひっかき傷をつけることがこんなに得意とはしらなんだ。今乗ってるオペル、天井にもキズがあるらしい。こればかりはいつやったのか記憶にない。

32:JJキャンパスクラシック
 「女子大生だけのゴルフコンペテイション」です。この運営は楽しかった。まだバブル前期の頃だったからなあ。肉体的な役得はなーんもなかったけど、フツーよりちょっと遊んでる?コの生態観察SHOWだな。1ラウンド230打つ選手から送迎BFつき宿舎抜け出し選手まで、笑えるコンペだったなあ。

33:GAINERカップ
 これはこれでK島企画の集大成。テニスとゴルフを軸にした男女混成チームによる団体戦。軽井沢、小海リエックス、最後は宮崎シーガイヤまで… その後ダブルコンペテイションには何度か立ち会うが、6年続いたのはこれだけ。スポーツと合コンのノリが売り物だったが、参加者は荷物が多くて大変だったそうです。

34:性意識の変革(芸風の確立)
 幼少期から下ネタは研究課題であったが、やっぱりウケるんだからしゃあない。「明るく、楽しく」って全日本プロレスみたいにやればいいのかよ。ま、ネーチャンもそういうのを笑ってくれるようなコのほうが感度いいしね。ようは笑えることとタイミング、これについては井山と篠の存在が大きいと思うけど。

35:藤原紀香とチークダンス
 先方はご記憶にないかと思いますが当方はカラダが憶えています。当時はモデルデビューのあとで、ブレイクする前の中だるみだったので、そんなヒマもあったのでしょう。いわゆる業界合コンみたいなもので、最後のチークタイムはくじ引きでK島が当たったわけ。身長と胸囲の関係でレントゲン撮影みたいでした。
  
36:泥棒が入った日
 中村橋に住んでいたころだから90年頃だった。真っ昼間に泥棒に入られた。もちろんやられたのは現金だけ。6桁だけど下の方だったから、身の危険がなかったことでよしとしなきゃならんでしょう。で、なんでこんなことがベスト50入りしたのかというと、配偶者とエッチした最後の日だからなんですね。あれから13年余。

37:バリマラソン42.195キロ完歩!
 勤続15年の5日の休暇、ハワイとかに行ってしまえば記憶に残らない。モニュメントにしようと海外でのフルマラソンに挑戦。付け焼き刃とはいえ、国内で300キロ走りこんで準備万端。だがしかし27キロくらいから吐き気におそわれ残り15キロは歩いてのゴールインでした。記録5時間45分。

38:めざせホップマンキャンプ!
 名選手のキャンプ地でもあるフロリダの「テニスの美浦トレセン」一度ここでレッスンを、と思い人事異動のスキをついて行って来た。レッスンはともかく修造が来ていて、彼に教えてもらった「マンズビーナス」は素敵なストリップだった。別料金で黒人のダンサーにさわらせていただき「整形乳房」に叶姉妹を思った。  

39:マンション住み替え物語
 初めて買ったのは「椎名町秀和レジデンス」1580で買って6年住んで1200で売り抜け。次が「ライツ中村橋」3900で買って10年住んだがバブルまたいで3700で売り抜けた。ここまでは上出来だったが、8年前に買った「パークホームズ練馬高野台」は価格落ちがひどくて数字言いたくないよお。

40:米長邦雄インタビュー
 はGAINERの仕事でしたが、vs羽生の名人戦も見に行ったし少なからず薫陶を受けてるなあ。人前で全裸になることをいとわず、下ネタと上?ネタを融和結合する偉大な人物、男子たるものかくありたい。ま、周囲は大変でしょうけどね… 将棋はご隠居さんになったら真剣にやってみるつもり。

第5章(45歳〜50歳)
99年4月より宣伝部。サラリーマン的な時間割になったが、それはそれで「セミリタイヤ志向」には向いてる。業務的には編集のボランチみたいなものだしね。

41:気まぐれライター開業
 テニスジャーナル誌に「K島さんのお仕事」なる連載をさせていただく。プロフェッショナルには気づかない視点を提供したつもりだが、ときどき「行きすぎた表現」があって編集長に直していただく。おもに下ネタ、クライアントこきおろし。結局江戸時代の禁書のテーマと同じ。卒論でやったからね。
    
42:兼高かおるゴルフの旅/K島編
 タイ35、ハワイ31、豪州19、なんだかんだで世界の100コース以上は回った。00年1月にはパース・ウエンブレーGCにてホールインワン達成。オーバーシーGOLFは妙な観光よりその国の実態が見えてくる。地形や地質もわかるし、言葉のカベもない。キャデイがいれば女性心理も垣間見える。

43:同期会、クラス会、幹事大忙し
 生誕50周年も近づいたあたりから、積極的に主催するようになりました。死に神にローソク吹き消されちゃうヤツも時々いるからねえ。ホントに子供の頃の事って、なんであんなに憶えているんでしょう。川柳川柳師匠の軍歌みたいなものか。というわけでボケ防止にもいいかもしれない。

44:フットボールクラブのオーナー
 去年浅利さんがヨットはじめたとか。ヨットよりサッカーチームのオーナーのほうがステイタス高いだろうってんで、西東京市リーグ2部「タートルズ」のオーナーを自称することにした。ユニフォームはメルボルンで買ってきて贈呈、あとはベンチで威張ってりゃいい。我が家のリビングが宴会場に提供など。

45:世紀末ツアー、ミレニアムツアー、新世紀ツアー
 99〜01年、3年間18試合にわたり繰り広げられた下手糞ゴルフツアー。当然幹事は私。ハンデ15くらい(開始時)の参加者メンバーコースやパブ選会場を荒し回った。レベルは低くてもやっぱりスクラッチじゃないと。3年目にはK島もハンデ12まで上昇、しかし元の木阿弥で今は14。
 
46:練馬区民大会優勝
 テニスのタイトルのなかで唯一オフィシャルっぽいのはこれだな。ただし壮年の部(45歳以上)。炎天下でスタミナぎりぎりだった記憶がある。音羽健保25勝とか光文社オープン7勝とかっていうのは地方競馬のその下だし… 印象深いのはブレンドの90歳以下で篠・三平に勝ってベスト4、相棒が松井だったから笑えた。

47:胆嚢炎、切腹手術
 昨春のこと、突然の胃痛を3日我慢して医者に行ったら「胆石だけど腹膜炎寸前です。すぐ入院手術」と診断されてびっくり。生まれて初めて腹部にメスが入った。執刀の夜のモルヒネはよかったなあ。9日間点滴だけで6キロやせた。腹筋も割れたと思ったら縫い目だった。腹は結局1年でほぼ復元してご覧の通り。

48:ワールドカップ日記上梓
 日韓ワールドカップは5試合ナマ観戦。これは記録に残しておかねばと、観戦日記を送信してみたら案外好評。ワールドカップ版トリビアみたいなもんだからね。終了後ナマ以外の観戦記も含めてhpにしました。私的レポート発表の場としてウエッブはかなり使える。この会見資料ものちにアップするつもりですが…

49:犬はかすがい
 一人娘は中卒でメルボルンに留学、この正月の帰国時にコッカスパニエルのAJ(名前)を連れてきた。当人は犬を置いてメルボルンに戻ったので、なんと老夫婦が犬の面倒を見る羽目に。K島は実はオバQで犬は苦手だったのだが、早朝から散歩させてますよ。配偶者との会話はすべて犬のことで、会話量のふえたこと!

50:セミリタイヤへの道
 巨泉はまだ会ってない気がかりな人物の一人なんだけど、どうもイヤな奴らしい。ただ巨泉提唱するところのセミリタイヤの発想は、少なからず同調する部分があり研究しなくっちゃと思っている。遊びをせんとや生まれけむ(梁塵秘抄)でここまできました。この延長線上に砂上の楼閣を築こうというわけです。ハハハ