「墓碑銘」

ジャンルカ・メモリー

2月7日の午後、VS.(バーサス)編集部の城戸君からの内線電話でサッカージャーナリスト富樫洋一さんの客死を聞いた。知り合ってから30年、妙な場所で会うことの多い男だった。縁があった、ということなのかもしれない。

シーン1・ひばりヶ丘中校庭
K島は才能はないがサッカーは好きだった。上智大学でサッカー愛好会・イーグルで名マネージャーだったが(笑)、名選手ではなかった。まあ「おみそ」みたいなもんだった。まして4年になれば「ご隠居さん」みたいなものだから、ヒマしていたら石神井高校時代の友人から声がかかり「同期でやっているチーム(タートルズ)があるから参加しろ」という。鶴田、佐々木、松木は関東大会準優勝のメンバーだからそれなりのものだが、剣道部の前藪や野球部の中島くらいならK島と大差ない。地元の保谷市のリーグ結成に参加、その相手チーム・スターライトの中心メンバーとしてジャンルカはいた。聞けば秋川高校サッカー部から慶応の同好会トータスというのが彼のサッカー歴。176センチだがヘデイング強かったし、当たりもあるので、トップもできるしボランチもできる、センターで存在感を発揮するタイプだった。保谷時代の試合で一度だけ、なぜかK島がゲームキャプテンだったときがあり、キャプテンマークを巻いていた彼とセンターサークルで握手した。ごつくてでかい手だった。タートルズvsスターライトの対決は、じつによく負けた。記憶にある限りタートルズ・グアム遠征壮行試合の1勝と、スターライトが松と竹に分かれた年くらいしか勝ってないはず。そのころ、ジャンルカは少なくともサッカージャーナリストではなかった。

シーン2・岩手県営競技場
ナンバーやらサッカー雑誌にライターとして、ちらほら「富樫洋一」の名前を散見するようになったのは80年代に入ってからだ。たぶんサッカーマガジンだったと思うが、チームメート北村君の折り返しが自分に合う理由、みたいのを延々とやった記事があり、オイオイそんな私的な話書いてていいのかい? などと思った記憶がある。噂では、W杯会場でアメックスのゴールドカードを自慢げにちらつかせて「これがあるから大丈夫」と言ったとか言わないとか。当時はゴールドカードもステイタスだったけど、「支払いが原稿料超えなきゃいいですけどね」と周囲から妙な心配をされていたらしい。楽天家だもんね。90年イタリア大会の特集「保存版ナンバー」は彼が中心になって作った別冊で、すばらしくできのいい本だった。スキラッチの足さばきを「包丁」に例えた彼の表現を今でも憶えている。そしてサッカージャーナリストに陽の目が当たり始めたのはこのころからだったと思う。草サッカーの会場にいたジャンルカのところに「サッカージャーナリストになりたいがどうしたらよいのか?」と相談に来たのは当時法政大学生だった金子達仁さん。これはジャンルカ本人から聞いた話だから多分間違いないだろう。
K島は90年からGainer編集部にいたので「機会があったら仕事をまわして、一緒にやりたい」と思っていた。実現したのはJリーグ元年(93年)、加藤久インタビュー。当時日の出の勢いだったヴェルデイのDFとして活躍する彼を取材すべく、岩手県営競技場へと向かった。なにしろサッカー関係者モテモテの季節で、ピッチにいる彼に“ジャンルカ!”という黄色い声が飛ぶのにビックリした。照れもせずタレント気取りで手を振る当人、K島も相当ノー天気だが「このオッサンははるか彼方にいる」とそう思った。原稿のほうは、とんでもないデキで結構アタマ痛かったけど。

シーン3・ビッグボックス
K島の知り合いで春風亭正朝さんという落語家がいる。この方も大変なサッカー好きで、フランスW杯ではNHKのゲストとして登場。落語協会サッカー部マンダラーズ・キャプテンとして大活躍している。彼の独演会が高田馬場ビッグボックスで行われた。少し遅れたので後ろから2番目くらいの席に着くと、前に巨大な(ヘデイング強そうな)見覚えのある頭蓋骨があった。ジャンルカである。漫画家やらカメラマンやらでやっている「字絵リーグ」つながりだろう。なんと同行者は奥寺康彦さんで「かれK島、隣は金井。2人ともサッカーはオレより下手クソ」と言いたそうだったが、言わずに古いサッカーつながりとして紹介してくれた。お笑いという視点から彼を見ると、なんと言っても「ダジャレ信仰」があげられる。笑いの中では一番低級なシロモノだが、いかにも俗物っぽい挿入ぶりが、キャラクターになっていて「こういうやり方もあるのね」と妙に納得させられた。ちなみにマンガ家のとがしやすたかさんとは従兄弟の関係、マンガ家・とがしとK島はゴルフのライバルで、なにかと縁がありました。そののち、三ツ沢まで横浜FCを応援に行ったことがある。ケータイが鳴ったので発信者を見るとジャンルカ「おい、後ろ向けよ」スタンドの上の方でGMの奥寺さんと並んでいたっけ。ジャンルカ=いたずら好きの一面を見た気がした。

シーン4・明保中校庭
保谷市が西東京市になってすぐ、西東京市シニアリーグが開催された。スターライトからスターダストに名称変更したチームにFWジャンルカ、市民クラブに吸収してもらって市民TクラブにDFのK島。ポジションの性格上、当然マッチアップすることになった。スターダストのパスはかつて帝京高校を一流校に引き上げた立役者・瀧田からのルートが全て。トップのジャンルカへいい球が集まるのだが、悲しいかな走れない。上体は前進を希望しているが下半身がついていってない。もちろんK島も足が遅いことにかけては人後に落ちず、2人のマッチアップだけはスローモーションみたいだったろう。シニアの試合は平均年令の若い方がそりゃあ有利、久しぶりにスターダストに勝てて、その夜は勝利の美酒を飲むことができたのだった。ともにピッチに立ったのはあれが最後「西尾どうしてるかしらない?」ジャンルカにとっては中高の後輩、K島にとっては大学の後輩で行方しれずの友人の名前が会話に出た記憶もある。

シーン5・光文社屋上
K島は6年ほど前から、宣伝部の窓際族をやっている。上司の粋な計らいで趣味のサッカーの仕事だけは回してくれる。このところ毎年「高校サッカー選手権」のプログラムに1ページの宣伝物を入れる作業があって楽しい。VS.やらスポーツ関係書籍やらの広告にちょっとしたインタビューをつけたものだが、その記念すべき第1回はジャンルカに登場してもらった。題して「みんなサッカー小僧だった」。選手としてピッチに立てなくても、サッカーと関わることはできる。そんな「夢の実現」を叶えた1人として選手権との関わりを語ってもらったのだ。インタビューは会社に来てもらって社食で、撮影は屋上だった。なんとも安易な設定で今思えば申し訳ない。小道具のボールを指先で回してもらってのポートレート撮影、画面いっぱいにあふれる笑顔を今でも憶えている。そのときの原稿をご紹介して、追悼の締めくくりとしよう。

みんなサッカー小僧だった/「選手権」は、はるか遠い国の話でしたね
ジャンルカ・トト・富樫
51年東京都生まれ 都立秋川高〜慶応義塾大 社会人生活をへて85年、34歳にしてサッカージャーナリストとしてデビュー。W杯取材5回、アフリカ選手権、南米選手権にも足を伸ばす。現在カルチョ2002編集顧問、スカパーでの解説(オヤジギャグ入り)にも定評。
私が卒業した秋川高校は全寮制で、当時は全員運動部所属という決めごとがあった。だからサッカー部は100人以上からなる大所帯、といっても常時練習しているのは30人くらいだったかな。実はサッカー部に入ったきっかけは、体育祭で足が速いのを見込まれてテニス部から移籍したんだよ。それまで遊びとしてはやっていたけれど、本格的にやるのは初めてだった。最初はサイドバックやってたんだけど、監督がWMシステムのセンターフォワードに抜擢してくれて、雨が降ろうと風が吹こうと練習したものです。ただ、私の同期は「試合に生かせる練習を楽しくやろう」という方針で、どちらかというと「戯れ系・紅白戦系」の練習でした。成績はブロック優勝、都予選ベスト32(初戦敗退)かな。インターハイも選手権も、どこか遠い国の話みたいなものでした。 当時は長居だったけど「国立でプレーする夢」なんて見たことも考えたこともなかった。
用具も今思えば昔日の感があるよね。ボールは太い革ひもでしめるタイプで、下級生は練習後、その手入れに追われていた。ヘディングがひもの部分に当たると痛いんだよ。ストッキングは野球と同じで、ひもをかかとに引っかける構造。シューズのポイントはアルミだから、スパイクされたら大変だ。休日に秋川の田舎から、茗荷谷のヤスダまで新しいスパイクを買いに行ったのを今でも憶えている。全寮制だったから外交官の子弟とかもいて、彼らは高価なアデイダスやプーマを履いていて、「ちょっと触らせてくれる?」の世界だった。週末は食堂に集まって、みんなで岡野・金子のダイヤモンドサッカーを見た。憧れの選手はマンUのジョージ・ベスト、デニス・ロー… でも個人的にはジャンニ・リベラ、当時からイタリアに通じる星のもとにいたジャンルカでした(笑)。芝生のピッチなんて夢のまた夢、あんな大観衆のもとで選手権を戦える、今の高校生がうらやましい限りです。
インテル・ファンを自認したくだりも笑えた。「青と黒がオシャレだから…」サッカージャーナリストがそうくるか。時には髪を不相応なくらいに染色し、ドーハでは客席の中で踊り、スタジアムでも会見の席でも目立ち続けた好漢ジャンルカ。ドイツ大会は天国から見ることになっちゃったね。3月5日の西東京市リーグ開幕戦は黒いリボンつけて向かいます。じゃまた。K島