「墓碑銘」

小野さんメモリー

「じゃ、お願いします。中盤、野口のところに入ってください」73年12月、場所は成蹊大学のグランド、新関東フットボールリーグの一部二部入れ替え戦、たしか後半10分経過した頃だった。我がサッカー愛好会イーグルの一部昇格を賭けた試合、相手は日大法学部だ。0:0の緊迫した展開、流れを変える選手交代が必要だ、その先に一部昇格が見えている。交代カードに「小野透」と記入する。腰痛で、練習に復帰したばかりではあったが「大丈夫ですよね」「行けるよ」というやりとりは試合前にできている。であれば、絶対の切り札が手元に温存できる。交代要員のいないセンターバックでも中盤でもどちらでもできる、万一けが人がでたときのことを考えて10分まで待ったが、使わなければ宝の持ち腐れである。メンバーチェンジに逡巡はなかった。

後日、というか40年以上経過した昨年、対戦していた日大法学部の戸田博視と飲んだとき彼は言った。「小野さんは4年生、引退の花道で使ってきたのかと思った」全くもって違うのだ。たぶん今でいうボランチ(当時はそんな用語はなかった)のポジションに入ってくれたと思うが、チームの空気が引き締まったのは間違いない。後にリーグ優勝のキャプテンとなる横山弘が初出場の公式戦でキープ力を発揮し、センターバックの小川宏は相手のエース高木為年の密着マークに成功した。むろん今ならイエロー2〜4枚ものだったけれど…
後半25分に小川純、終了間際に沢村彰一のクリーンシュートがゴールに吸い込まれ昇格が決定した。祝祭の胴上げで小野さんが宙に舞ったのは言うまでもない。その後一部昇格したチームの試合にも駆けつけ、冷静なコーチングをしてくれた。

自分は高校時代、サッカーとテニスは気になる部活だったが、身体能力を考えて諦めた。体育の授業時間には何点か取れたのと、クラスにいたサッカー部崩れがうまくなかったので、大学では愛好会くらいでやってみたい、そう思ってあの階段を下りていった。そこで一学年上の小野さんと出会った。けして派手なプレーはしないが堅実で、基本に忠実。競り合いに強く、試合となればチームでいちばんユニフォームが汚れていた。たしか中央との試合だったが、小野さんがスコスコに抜かれたのを見て、このチームは強いや、と思った。こっそり?呼んでいた「ストロング小野」チームの柱だったから、てっきりキャプテンをやるんだと思っていたが、「横田には責任持ってもらったほうがいいプレー期待できるから(本人弁)」と、サポートする立場に回った。あくまでフォア・ザ・チームの人で、そういう振る舞いが自然にできるところに感心した。ほぼ初心者同然の私にも差別なく接してもらった。ご自宅で「おでん」をごちそうになったのも思い出の一つである。

82年暮、「人生は企画力」を提唱する自分が奔走?した結果、日の丸を付けてグアム代表と現地でサッカーをすることになった。最近はワールドカップ予選にも出場しているグアムだが、当時の代表?チームは韓国人中心の社会人チーム。イーグルOBを中心にメンバーをかき集めたのだが、センターフォワードがいない。ここでも頼りは小野さんだった。「ところでセンターフォワードやってもらえませんか?」ヘデイングは強いし、足元だってしっかりしている。ポストプレーはもちろん前線からの守備だって期待できる、問題があるとしたら性格だけで、いわゆるフォワードにありがちなワガママな部分がない。しかしメンバーを見渡して、納得していただき[9]をつけてもらった。試合はゴールレスドローだったが、責任感あふれる活躍に胸をなでおろした。

「癌なんだ。胸腺というところにあるので手術はできない。放射線治療でどこまで効くのか、わかないけれど…」癌との闘病が始まったのは5年前のことになる。最初のうちは本郷での「熊丸さんを囲む会」にも来てくれたし、私の後援する公演「松元ヒロ・ソロライブ」にも、はるばる杉田まで足を運んでくれた。テレビには出られない左翼芸人、松元ヒロを面白がってくれたのは何故? まあ、人は自分にないものに惹かれる、そんなふうに理解していました。
とにかく、癌闘病ともなれば、集まる頻度が増えたのはいうまでもない。田中章のルートでワールドカップ予選のチケットが手に入ったので、同期の小野寺健司、小野さんと高校・大学と一緒だった折口実さんとともに浦和スタジアムに行ったのもついこの間だ。やがて、酸素吸入器をつけている関係で都心の集まりに参加するのは難しいという。「じゃ三鷹でやりましょう」と提案すると、場所も抑えてくれた。今年に入ってからは、自宅のリビングに4人でお邪魔し、お見舞い帰途に麻雀という、素晴らしい企画(「人生は企画力」)を思いついた。しかし間もなく体調を崩され、雀卓は2回しか囲めなかった。

葬儀の日、奥様が言った「主人は真面目で誠実、そして優しかった」自分の場合、間違っても葬儀で配偶者にそう言われることはないだろう。いわれるとしたら「勝手で気まま、糸が切れた凧みたいな人」くらいだろう。葬儀の日と前後して同期の小野寺健司とフェイスブックでこんなやり取りをした。小島「小野さんあってのイーグルだったんだよね、我々にとっては…」小野寺「心の支えがなくなってみんなで集まれるか心配です」大丈夫、集まって小野さんの思い出話でいつも盛り上げてみせます。亡くなった永六輔さんがこんなことを言っていた「人は死んでも生きている人たちの心の中に残っている限り死んだわけではない。本当に死ぬとは誰からも思い出されなくなった時だ」と… だからまだ小野さんは生きている。私たちの心のど真ん中に。