「墓碑銘」

アベケン・メモリー

03年1月、50歳を待たずして黄泉の国へと旅立った安倍博さん、通称アベケンはK島と同じ小中学校に通っていた。クラスこそ一度も一緒になっていないが、なぜか随所で接触があり忘れられない思い出が山ほどあった男。訃報を聞いてすぐ「練馬中警察署」だった在・メルボルンの石原敏郎氏に掲示板作りをお願いしたK島は、連日「アベケン・メモリー」として駄文を書き連ねた。


寿福寺幼稚園、練馬小学校、そして練馬中学校と10年間一緒だったが、クラスが同じだったことは一度もない。とはいえ、アベケンはその存在感で広く知られていたし、こちらもなぜか目立ってしまうキャラだったので接点は少なからずあった。
まずは「アベケン」という渾名の由来から。当時アベケンの自宅から2,3分の富士街道沿いに「阿部建材」という土建屋があり、これが命名の源であろう。アベの字が違うから親戚でも何でもなかったのだろうが、巨体、巨顔、威風堂々、は土建屋の雰囲気に通じるものがあったと思われる。後年「オヤジ」という愛称もあったが、これは見てくれどおりで説明のしようもない。
さて、K島とアベケンの接点は、なんと言っても「学芸会」である。小学校3年のときの児童劇(タイトル忘念)はこんな話だった。海底に沈んだたこつぼをめぐって、エビ・カニ・タコが繰り広げる争奪戦、それを制したのは大だこであった。で大だこが「俺様のものさ」と豪語したとたんたこつぼは海底から引き上げられてしまう、という筋書き。このたこつぼの第一発見者「エビの1ちゃん」を演じたのがK島、引き上げられてしまった「大だこさん」がアベケンだったというわけ。引き上げられるとき、どうやって姿を消すのかと思ったら、後ろの緞帳の隠れるという芸のないやり方だったのも印象に残っている。劇中歌「ずーるいな、ずーるいな、大だこさん、ずーるいな、ずーるいな、出ておくれ…そーこはお前のウチじゃないよ」というのを歌ったんだなあ。
高学年になって、連合学芸会用の作品でも一緒だった。このときの演目は学級を舞台にした生活劇で、いじめ役といじめられ役がメーンを張るストーリー。演出は学芸(会)大新卒、1年前までピカピカの女子大生だった藤原先生で、ナイスボーイのいじめられ役は迷わずプリンス栗本規一郎を指名。問題は悪役・いじめっ子のほうで、K島とアベケンが候補にあがった。自分で言うのも気恥ずかしいが前者は演技力を買われ、後者は存在感で選ばれたと思う。ところがというか、あたりまえというか、K島はこの役やりたくなくてねえ。結局泣いてアピールして、端役に替えてもらった。アベケンはいやな顔ひとつせずいじめ役をこなしていたっけ。
で、練馬公民館ホールで上演する当日、栗本が発熱して、出演者は小学校に近いアベケンの家に集まった。K島はこのときたった一度だけアベケンの自宅に足を踏み入れたわけです。耐熱ガラスの外国製石油ストーブ(当時は高級品)が赤々と火を灯していたのを憶えている。宇野をプロンプターつきで栗本の代演させるという話もあったけど、結局高熱をおして栗本が出演した。
ま、それにしてもあれほど半ズボンの似合わない小学生は少なかったんじゃなかろうか。子供の頃からオヤジ顔だったもんね。意外だったのは車酔いすることで、遠足のバスではバケツの世話になってた姿も記憶に深い。


中学校に入っていちばんビックリしたのは、向山小学校組に、東京タワーもどきが二人もいたことで、それまで大きいのは等々力とアベケンくらいしかしらなかったから、畏怖の念を抱いた記憶がある。しかも石原にいたっては、顔の大きさもアベケンとタメなわけで正直あきれた。ただ毛深さにおいてはアベケン>イシハラで、この部分は完勝だったでしょう。なにしろ中3にして立派な胸毛がありましたから…
さて1年C組の前に流しがあったのをご記憶だろうか? ここで毎週一度、K島はアベケン一派を客に小咄を披露して(させられて)いた。ネタはその週の日曜にやっていた「笑点」から拾ってくる。「笑点」は当時のベストセラー「氷点」のパロデイタイトルで、談志の命名だが、とにかくあの頃の「笑い」としては例えようもなくシャープだった。K島はハマっていた。で、そのことを誰かに知らせたかったこともあったし、アベケン一派(というより、やっぱりアベケン)に受けたのが口演のモチベーションだったのでしょう。「よし、オモシロイ!」とまるでダンナに芸を披露するタイコ持ちのようでした。
そんなこんなで、そこそこに親しくはしていたのだが、こちらが扱いやすいキャラということもあり、大人のオモチャにされた事件もあったわけです。
3年の夏です。プールサイドをほっつき歩いていたK島に忍び寄る影一つ、アベケンのテカ野田某であります。その瞬間「そーれ!」と野田に突き落とされたわけですが、別に足の立たないプールじゃないし「くだらんことやっとるわい」ってなもんだったんですよ。ところが、落ちたところに待っていたのが大だこさん(「1」参照)アベケン、「よく来たな、待ってたぞ」毛むくじゃらの豪腕でK島の頭をむんずとつかまえると、プールの奥底へ押さえつけられたのであります。ボブサップに抑えられた若手レスラーみたいなもんですわ。逃げるに逃げられない。K島クン、これじゃたまらんとサップの毛ずねをむしって死にものぐるいで逃走、プールのスタンドに逃げるが悪党2人が「逃げたって無駄だぜい」ってな風情で追ってくる。さいわい柳沢先生がいたのでその背後に回り込んだんだが、この先生はよくできた人だったね。「民衆の抗争、我関せず」でなんにもしないんだ。結局、再度捕まって沈められたのは言うまでもない。今だと「イジメ」とかなんとか大騒ぎなんだろうけど、別にそうやって人間関係を憶えていくんだから、どうでもいいこと。以来K島クン、いじめられ方も巧くなったように思う、とりわけ家庭で(笑)。
もう一件、週刊プレイボーイは、当時創刊されたばかりで、その表紙はエッチな動物。ご記憶の方も多かろうが、たとえば女性のヒップがライオンの顔になっていたり、ラクダのコブがオッパイだったりするわけ。K島少年はいたく気に入っており、購入したいのだが勇気がない。というか中3でも中1がいいところの容姿だしね… そこで一計、金をわたしてアベケンに買ってきてもらうのである。80円だったと思うが、4人で20円づつ出し合って、アベケンに委ねる。「よっしゃ、まかせておけ」と青々としたヒゲ面で、たぶん学生服のまま買ってきてくれた。それは原先生の目をかすめてクラスを横断して回覧されたのであった。
そのわりに「オレ、○○スキなんだよな」みたいな話は聞いたこともない。誰かのように、女生徒と一緒に下校するなんてアベケンでは考えられないし、もちろん見たこともない。森さん、田中さん、宮川さん、死んじゃった小高さん もしかしてアベケンからのラブレター持ってませんか? 持ってたら個人的に表彰しますよお。そして、ひょうたん事件。事務の安達先生が大事に栽培していたひょうたんを、これもアベケン一派がむしり取っちゃった。おわびに卒業間近、裏庭にひょうたん池をつくるという美談もありましたね。


巣鴨高校に進学し、鉄道公安官になった噂を聞き、晩婚ながら結婚したとも聞いた。長い時をへて02年、同期会2次会会場のカラオケルームへ向かう階段で「いやあ、これ昇るの辛いなあ」とアベケンはつぶやいた。たったワンフロアーの階段が昇りづらいとは…相当、体力も衰えていたのだろう。そう言う意味では会えてよかったなあ、つくづく思うし、昨年の同期会で、佐藤忠明、野喜稔昭と並んで「花形」であったことはアベケンにとって最後の花道だったのかなあ、ちょっと地味な花道だけど。
それにしても「人生50年」は織田信長の時代の話で、ちょっと早すぎやしませんかねえ。
通夜の前夜、せめて自分のクラスの男子くらいはと思い、飯田(留守電)岩瀬、小河原に連絡。もう一人笹沼を捜そうと思ったが連絡先不明。思わず岡野先生に連絡し、勤務先を調べてもらった。「昭和高校定時制・教頭」が現在のお仕事。岡野先生から一報入れていただいたこともあり、本人と連絡が取れました。告別式には出ると言っていたので、笹沼正美を見たい人はぜひ告別式に。こんなことでなければ、捜さない、出てこない、のも困ったものなんですがね。
思い出話もネタが尽きてきたので、今日は空想の話。1月はラグビーシーズンだったので「練中ラグビー部」を作ってみた。アベケンのポジションは決まっている。背番号1、フロントローの屋台骨だ。敵味方あわせて16人のスクラムの重圧が、一人の首にかかる。そして常に人混みの中で押し合いへし合う、下手すると試合中ボールにふれることなど一度もなかったりする、まさに縁の下の力持ちだが、このポジションに人材を得たチームは強い。あの強かった新日鐵釜石に故・洞口孝治という名選手がいたことはご記憶にあるでしょう。あの顔、あの首、あの胸板(胸毛)、相手チームのフォワードも、さぞかしビビることでしょう。プロップ1番はアベケンをおいて他にいない。
以下、こんなメンバーで試合に臨むことにしました。
2(フッカー)野喜:スクラムにぶらさがってボールを足でかく機敏性、騎馬戦で見せた闘争心で抜擢
3(プロップ)小河原:こっちもスクラムの柱です。硬派が務めるポジション。大きさと強さがあるから。
4(ロック)留野:巨漢はロックというのが定番、ただトメさん球技にはあんまり向いてないようにおもいますけどね。代役荻野だが鈍足で…
5(ロック)石原:砲丸のごとくラクラクと楕円球をわしづかみ、この競技やってれば代表を狙えた素材です。
6(フランカー)安斉:機動力と戦況判断、野球で言えばセカンドだし…
7(フランカー)横内:一足先に彼岸でジャージを揃えてくれています
8(ナンバーエイト)等々力:押せて、突進して、スタミナもあって。今はプロップだけど、当時ならここで起用
9(スクラムハーフ)阿部正美:機敏にさばくポジション、軽快さを買いました
10(スタンドオフ)岩瀬:蹴れて、走れるっつうことになると彼をおいていないでしょう。球技のセンスは練中で一番だったと思います
11・14(ウイング)宮本貢市、栗本:快足選手のポジション、トライゲッターにはサインも殺到しそうだしね
12・13(センター)飯田、唐沢:近年はバックラインも大型化しています。このくらいの大きさが欲しい
15(フルバック)吉田正裕:バックラインに割って入ったり、ディフェンスの穴を消したりが仕事。ヨミの良さはあったようななかったような…
ほかにスコアラーとして加瀬。あの字はスコアブックによく似合う。


1月25日(土)晴れ 告別式は10時からということで、実家にクルマを置き愛染院までの道を歩く。実は愛染院はK島が通った練馬小学校(旧校舎:もちろん今はない)の裏手にあり、小学生時代の通学路を歩いたわけだ。ここが5年前に死んだ横内の家があったところ… このへんが水上が住んでた都営住宅… アベケンの家があったあたりは高層マンションになってしまっている。練馬春日町の交叉点を越えれば愛染院の参道、その入り口には「練馬大根の碑」がある。子供の頃、よくここに登って遊んだもの、紙芝居を見た記憶もあるし、粘土屋さんもここで店を開いていた。空を仰げば雲一つない冬の青空、頬をさす風が痛い。あの頃の冬はもっともっと寒かった。霜柱をさくさく踏みながら登校したが、少年の半ズボンでは鳥肌の立つ朝も多かった。
到着は定刻ぎりぎりだったので、会場は人であふれていた。このところは療養生活だったアベケンとはいえ、JR勤務の現役として亡くなったので会社関係の人が多いのだろう。会場奥の方に見つけやすい「童顔巨漢」荻野を発見したので、そちらに進む。女性の同級生も何人かいる。受け付けは記帳がカードになっていて、多人数対応しやすいスタイルであった。記入していると横に桃井先生、時間ぎりぎり、遅刻寸前の到着は、練馬中時代から変わらない。そんな先生から「K島クン、掲示板記入ごくろうさま」とねぎらわれる。訃報を知ってすぐ、石原に掲示板作成を提案したこともあり、毎日「追憶ストーリー」書いては目を充血させていた。旧い記憶をたどり起こすのは、それはそれで、けっこう楽しい作業だった。ずっと音信不通だった笹沼も姿を現した。姿かたち、ほとんど昔と変わっていなかった。
弔問客が多いためか、読経は20分ほどで焼香に移る。葬儀屋が「人数が多いので焼香はひとつまみで」と進行を促す。そんなの初めてだって、まあいいけど。祭壇のアベケンはクリーム色のシャツで、その巨顔にはかすかな笑みを浮かべていた。学芸会のこと、プールのこと、去来する思い出を胸に手を合わせた。こちらもいずれあとを追う、しかし… 祭壇の左端には我々からの生花が届けられていた。代表・佐藤忠明と大きく墨書されている。自宅で寝たきりの「代表」である。彼の復活も待たれるが寝込んではや4年、けして平坦な道ではないだろう。つくづくこちらの健康のありがたさを感じる。
友人代表で小学校以来の友人深野クンが弔辞。いわく「安倍クンは大きな人でした。結婚式当日、あれを忘れた、これを忘れたと玄関を出たり入ったりしていたあげく会場で『あっ、いけない、結婚指輪忘れた!』そして結婚式の最中に『深野、言ってなかったけど披露宴の司会よろしくな』私はやられた、と思いました…」悲しい中に笑いがこぼれてしまう。深野クンによれば正月は酸素吸入の下ですごしたようです。さぞかし苦しかったことでしょう。
続いて、お兄さんが「8歳も年下の弟を先に見送るとは…」で始まる挨拶。「…とりわけメルボルンに住む中学校のお友達には掲示板を作っていただき、多くの同級生から貴重なメッセージをいただき感謝に堪えません。博の棺に入れ一緒に…」云々。よかった、よかった。ご遺族に喜んでいただければ、掲示板を作った甲斐があったというものです。
最後に献花、白い菊を2輪、棺に眠るアベケンの巨顔の横に置かせてもらいました。彼岸でまたお会いしましょう。棺は落合火葬場へ。ぼくらは霊柩車に向かって手を合わせました。アベケンさようなら。
葬儀終了後、愛染院にある鹿島清孝の墓に線香をあげる。こんな時が来るとは、子供の頃思いもしなかった。たった5年ほどのあいだに横内、鹿島、安倍… 早過ぎるなあ、ホント。帰ってくることのない『少年時代』に封印できないK島には、そのたび哀しさの波が押し寄せます。近所のサイゼリアで少し厄落とししての帰り道、廃業した「鹿島鮨」借金で倒産し、挙げ句店主が命を落とした(絶った?)文房具店フタバなど、商店街の栄枯盛衰を確認する。寿福寺幼稚園、ホズミ床屋は健在。ちなみに佐野さんと柏原さんの実家も2軒並んで昔のままでした。
家に帰って、お清めの塩といっしょに挨拶状に入っていたのは、なんとパスネット。使用説明書には「JRの路線をのぞいて有効!」と明記されていた。自分の勤務先にこだわらず、やっぱりアベケンは大きな人だった。 遅れて彼岸についたK島をまたしても血の池に沈めてくれるのでしょうね(苦笑のち涙)


10月23日(木)東松山富貴ゴルフクラブにてプレー終了(スコア44/43まあまあか)15時。前日Yahooで引っ張り出しておいた地図を頼りに、アベケンの眠る「遍性寺」へと向かう。東松山から行田へは直線なら近いのだが、大きな道がなく多少大回り・・・ K島の傷だらけオペルにはカーナビなんてハイテクは積んでない、なにしろ査定6万円!だからね。ちょっと探してみて「こりゃ無理」と察知、この日の第2訪問地を先に訪ね行田在住の超良心的歯科医E原さんをカーナビ代わりに積み込む。というか同乗してもらう。そのあともひっぱりだした地図が間違ってたりしていろいろあったが日没寸前、やっとのことで畑の中に遍性寺を発見。噂通り小さなお寺だった。
住職に挨拶、とも思ったがなにしろ秋の陽はつるべ落とし、墓参りを急いだ。墓地は寺の裏手にある。暗くなってきて、刻まれた文字がやっと読めるくらい。ここでもE原さんが「K島さん、ありましたよ安いに倍の安倍さん!」と発見してくれた。持つべきものは友人である。1週間くらい前に取り替えたであろう花、どなたがいらっしゃったのでしょう? なにしろ寺探しに時間がかかりすぎ線香一束持っていない。「今度、石原と来るときはもってくるからな、今日は下見ということにしてくれい」と合掌。ふと視線を上げると色づいた稲穂が風にゆれていた。昔の練馬によくにた風景がそこにはあった。次回はカーナビのついたクルマでいくぞお。